2011年10月24日月曜日

facebookが次の次の次くらいのF8で発表する内容はこんな感じドヤッ


関係者から話を聞いたとか、信頼できる情報ソースがあるとか、
そういったことは全くなく、もう完全に個人的な妄想です。
でも妙に自分の中では「そうなるんじゃないか」って思ってます。
いわゆる根拠の無い自信ってヤツです。

エクスキューズはこれくらいにして、
facebookが次に狙う領域はヒトが言語化できない思考の可視化

だと思っています。


今年のF8ではタイムライン等の機能が発表されました。
昨日の詳細等については他のブログに譲りますが、
熊坂氏はブログにて、タイムラインのことを以下のように表現しています。

これはもはや単なる「プロフィール」ではなく、自分の人生のストーリー、あるいはヒストリーそのものだ。好きな音楽、映画、テレビ、本、ゲーム、関連のある場所を記した地図などのアプリ、日々アップする写真やストーリーが、重要性に応じて配置される。それらのコンテンツは時系列にアーカイブされていき、スクロールダウンすることで、最後は生まれた時までさかのぼれるのだ。
マーク・ザッカーバーグが発表した新しいFacebook(2011 f8まとめ) 

今回のタイムライン等の機能が本格的に実装されたら、
過去を含めた言語化出来る人間の思考は、

ある程度の規模可視化出来るようになります。
そうなると、「もはや」次に狙う領域は、
言語化できない無意識の思考の領域しか
「残っていない」気がしています。

そもそも人間の思考のうち、自分自身が認識できる思考って

実は僅か5%で、言語化できる思考は、その更に5%前後。
要は人間の思考のほぼ100%は表層化されない無意識で、
この膨大な手つかずの未知の領域は、

DB化できればドル箱に化けるポテンシャルがあると思います。


なぜこの領域はドル箱のポテンシャルがあるのか?
例えばマーケティングリサーチ。
マーケティングリサーチには大きな落とし穴があって、

仮説に基づいて集められたデータは、
その仮説を肯定する結果にしかならないということです。


表層化される思考は、何が思考の顕在化の引き金になったかで
決まるので、例えば質問の配列・順序の違いによって
調査結果が全く異なるという現象は数多くあります。
つまり、人間の言語化できる思考に頼ってリサーチしているうちは、
リサーチャーの仮説が正しくない限り、
消費者インサイトは捉えることは不可能ということです。


そこで、もしFacebookが無意識の領域をDBとして手中に収めたとして、
マーケティング領域に関わる人が、
そのDBを欲しがらない理由がない気がしています。


そう考えると、無意識の領域は割とドル箱の領域であって、
認識・言語化できる思考を手中に収めつつあるFacebookが、
無意識の領域の可視化に挑戦することは、
結構自然な流れのような気がしてきていますドヤッ

2011年10月17日月曜日

事実を「つくりあげる」脳ミソとマーケティングの付き合い方


先ずは上の絵を見てください。何が見えますか?



おそらく愛しあう二人の男女が見えてくるのではないでしょうか?
しかし小さな子供がみると、9頭の(小さくて黒い)イルカが見えます。
なぜか?
それは理由は愛し合うカップルの概念が彼らの中にないからです


上記の例は、
「我々は、無意識のうちに、ある物事に関する判断をつくりだす際、
別の刺激に基づいた判断を用いる」現象を表す一例です。
この事をハーバード大学の物理学者のジョン・ダウジング氏は
このように表現しています。
どうやら私たちの視覚システムは、網膜へイメージを伝えるだけではなく、視覚的記憶や経験を統合して、世界を整合的に見るようにするようである
 そして、その別の刺激とは、必ずしも事実であるとは限らず、
脳が「勝手に」「つくりあげた」事実が刺激となることも多々有ります。

無意識に・・・
例えば偽薬の鎮痛剤を手術後に投与された場合、
偽薬投与をうけた患者の約50%が、本物の治療を受けた際と同じ回復をします。
これは患者の自己申告ではなく、生理的な状態を観察した結果です。

このような無意識の作用は現在研究が始まったばかりで、
捉えどころがないのが現実です。
しかし消費者は自分の経験(時には事実と異なる錯覚すら)という
取るに足らない情報によって、商品・サービスに付加価値を与えたり、
ブランドへの反応に影響を与えます。

事実消費者は自分の好きなブランドの飲料を口にしていると認識すると、
彼らはその消費経験に対して、口当たりの良さやリラックス感などの
追加的な価値を付け加えますが、所謂ブラインド・テストにおいては、
ブランド名が参加者の思考に影響を与えないため、
こうした価値は付加されません。

であれば、こういった無意識が、如何に意思決定に影響を与えるか、
デザインやロゴといった外観的手がかりが消費経験に与えるインパクト、
などなどを研究する価値はあるのではないかと思います。
(具体的な方法論については、鋭意研究中なので後日・・・)


2011年10月11日火曜日

「広告は引き算である」



「広告は引き算である」

昔、ある人から教えてもらった、言葉。
やっぱりこれだなと。

この1ヶ月近く、勝手に1人で考え込んで、もやもやして
ブログが書けなくなった先にたどり着いた答えが、
この昔、ある人から教えてもらった、この言葉でした。


「人はひとつの球しか受けきれない」
広告とかコミュニケーションに関わる人なら、
なんとなくどこかで聞いた事があるようなメタファー。

これってやっぱり真実だなと改めて思います。
なぜなら
「人間の根本は、そんなには変わっていない」
もっと言えば、人間は「進化したサル」に過ぎないから。


人間の思考プロセスの95%はサルとかその他の生き物とかと同じで、
何も考えず、遺伝子的が勝手に「反応」しているに過ぎない。
残りのたった5%で、熟考したり、人間を人間たらしめている。

つまり「人間は自分が考えている程高度な生き物ではない」
ということで、先程のメタファーだと、たくさんのボールを受けきれるほど
賢い生き物ではないという事なんだと思います。

少し蛇足になりますが、「人間は社会を形成した高度な生き物」
と言われる事がありますが、
人間が社会を形成したのは約600万年前で、
この600万年という期間は遺伝子の変種を含む進化の過程としては、
十分な時間ではないそうです。

だから1つの球を受けられるように、引き算しないといけないと思うわけです。
コミュニケーションにしても、商品そのものにしても、
基本足し算的な思考の世の中だからこそ。

それを体現してくれたのが、アップルであり、ジョブズだと思います。
日経トレンディの対談にもでてくるんですが、
彼らは、ファンクションではなく、「生活がこう変わる」という
「何を」変えたいかに徹した。
だからこそ、マウス然り、タッチパネル然り、徹底的に排除できた。
だからこそ、みんながエンジョイできる、人の拡張機能としての、
本当の意味での「パーソナル」コンピュータを開発できた。
ツール、道具としてのパーソナルコンピュータではなく。

みんな感動するものは感動するし、心に刺さるものはみんな刺さる。
多少の差異はあれど、根本的に共通するところは絶対にあります。
そういう根本というか、原始的なところを
徹底追求すればイイんじゃないかと。シンプルに。
寧ろそれが出来ていないから、分衆とかセグメントとか
難しいこと議論するんだと思います。
もっとシンプルに。引き算思考で。(自戒をこめて)