先日@Capoteさんの企業が未だソーシャルメディアに手つかずなのは、40才のマーケティングディレクターのせい?が印象に残り、過去の自分のツイートやブログを読んだりしながら、考えを巡らせ、せっかくなのでその痕跡を残しておこうかなと。
@Capoteさんの記事は消費者と直接つながることが容易になり、
コミュニケーションができるようになった今、
セールスからカスタマーサポート、商品開発や改善のリサーチが
ソーシャルメディアである程度可能となり、
企業のあらゆる側面でマインドセットの更新が求められているが、企業の役員が状況を理解してないからではないのか?という内容です
色々と考えを巡らせて、少なくとも現時点での考えは、
(すみません。未だ考えがまとまっていないので、多分かなり流動的です)
企業が未だソーシャルメディアに手つかずなのは、
『変化』を強調するソーシャルメディアコンサルタントにも
原因があるのではないかと。
いや、実際変化は起こっているのだと思います。
ハーバードビジネスレビューでも「タッチポイント」の重み付けが変わってきている
という話が書かれたりしています。
ここでは詳細は割愛させて頂きますが、
smashmediaの河野さんのブログがとても参考になります。
ただ、メディアの変化、テクノロジーの変化、人の変化、という事を
強調し過ぎていないか。
(自分への問いかけでもあるのですが・・・)
そこを強調するが故に、
40才のマーケティングディレクターは手をつけられないのではないか
(人間は変化を嫌う生き物なので)
糸井重里さんとお仕事をされている池本孝慈さんのブログで、
メディアやテクノロジーが社会を変容させるのではなく、
メディアやテクノロジーは社会の変化を形にしたに過ぎない。という趣旨の
とても考えさせられる記事があったので、一部抜粋してご紹介します
広告の話にあてはめると、広告に戻るということなんだろうと思います。
脱広告ではないはずなんです。
なぜなら、脱広告は、メディアの変容にあわせた
“狙い過ぎ”の広告に過ぎないとも言えるからです。
そして、さらに個人的な感覚としては、その人間ですら根本的なところはそんなに変化していないと思っています。
アメリカでは、1620年に英国からの移民が始まってから
現在までの約400年の間の19の世代を類型化した研究があります。
それによると、19の世代は4つの元型に分類することができ、
同じ順番で続いているという研究が発表されている。
よくよく考えてみると、自分達世代(ちなみに86世代です)は、
上の世代から、「物を買わない」と批判されますが、
その上の世代って、青春時代をバブルで過ごされた方で、
多分浪費だ、無駄遣いだの上の世代に批判されたんではないかと。
また「草食男子」と皮肉交じりの言葉がありますが、
草食に見えるが、実は肉食という「ロールキャベツ男子」という言葉も存在し、
そう考えると、案外やっぱり根本的には変わっていなかったりするのではないかと
思います。
以前「ソーシャルメディアの価値がキャズムを超える為に必要な事」という
ブログでも書かせて頂きましたが、
ソーシャルメディアがまだそんなに世間的に認知されていなかった時期は、
次男坊的にというか、のびのび自分達の主張を主張していく事が
世の中における1つの価値だったと思います。
ただいよいよ世間で注目され始め、
世間という枠の中での責任も大きくなってきた事で、
長男的な役割を果たさねばならなくなったきたのが
今なのかなと思っていていて、
『変化』を強調しないというのも大事な要素ではないかなと。
今回のブログを書くにあたり、
バーソンマーステラの熊村さんの「キャズムは越えない、越えられない」は
改めて考えさせられ、かなり影響をうけました。
最後にその中で、印象に残っているフレーズを抜粋させて頂きます。
追記
この記事を書く事に対して、色々なご意見を頂きましたが、
自己否定が伴わないevangelizeに価値があるとはボクは思いません。
それはevangelizeではなくforceだと思います。
本当に価値を伝えていく為には、
今回の記事の理屈が通っているかどうかという点は疑問が残りますが、
少なくとも自己の立場を否定する機会は必要だと思います。
@Capoteさんの記事は消費者と直接つながることが容易になり、
コミュニケーションができるようになった今、
セールスからカスタマーサポート、商品開発や改善のリサーチが
ソーシャルメディアである程度可能となり、
企業のあらゆる側面でマインドセットの更新が求められているが、企業の役員が状況を理解してないからではないのか?という内容です
色々と考えを巡らせて、少なくとも現時点での考えは、
(すみません。未だ考えがまとまっていないので、多分かなり流動的です)
企業が未だソーシャルメディアに手つかずなのは、
『変化』を強調するソーシャルメディアコンサルタントにも
原因があるのではないかと。
いや、実際変化は起こっているのだと思います。
ハーバードビジネスレビューでも「タッチポイント」の重み付けが変わってきている
という話が書かれたりしています。
ここでは詳細は割愛させて頂きますが、
smashmediaの河野さんのブログがとても参考になります。
ただ、メディアの変化、テクノロジーの変化、人の変化、という事を
強調し過ぎていないか。
(自分への問いかけでもあるのですが・・・)
そこを強調するが故に、
40才のマーケティングディレクターは手をつけられないのではないか
(人間は変化を嫌う生き物なので)
糸井重里さんとお仕事をされている池本孝慈さんのブログで、
メディアやテクノロジーが社会を変容させるのではなく、
メディアやテクノロジーは社会の変化を形にしたに過ぎない。という趣旨の
とても考えさせられる記事があったので、一部抜粋してご紹介します
作曲家で音楽プロデューサーの小室哲哉さんがこんなことを語っていました。
小室 あえて狙わないほうがいいと思いますよ。以前は、プロの作曲家なら、“狙い過ぎ”の曲ってすぐわかったんです。「サビはCMのタイアップ用で、絶対あとからAメロとBメロつけたな」とか。それが今は“一億総ジャーナリスト状態”で、一般の人もそういうことに気づいている。何かに似ているとか、何にインスパイアされたとか、「そんな細かいところまでわかるの!?」って驚かされます。だからごまかせない。当然ですけどね。90年代までは一般の人が“通”になっているとは感じなかった。みんなが驚いてくれる、喜んでくれるカードを'80年代に僕はいっぱいためてたんです。
ーーーー今、そういうストックは?
小室 ない‥‥っていうと、何もないのかよ!ってなっちゃいますけど(笑)、今は一度ゼロに戻って作ってるっていうことです。僕はもう自分らしさについて考えているだけ。聴いてくれる人がジャーナリスティックに総評してくれればいいなと。ブログやツイッターでも‥‥‥
引用では、これからの小室さんの抱負として、ブログ、ツイッターが言及されています。 だからといって、読み手が、この社会の変容が、個人メディアとソーシャルメディアによるものだ、と考えるのは間違っています。2000年には、個人メディアやソーシャルメディアは普及していませんでした。つまり、主客が逆なんです。
2000年くらいから、個人メディア、ソーシャルメディアを受け入れる素地が社会にできた、ということなんですよね。そういう、個人が発信するメディアを受け入れるだけの素地が、いつのまにかできていたということなんです。ただ、それにインフラやテクノロジーが追いつかなかっただけで。
広告の話にあてはめると、広告に戻るということなんだろうと思います。
脱広告ではないはずなんです。
なぜなら、脱広告は、メディアの変容にあわせた
“狙い過ぎ”の広告に過ぎないとも言えるからです。
そして、さらに個人的な感覚としては、その人間ですら根本的なところはそんなに変化していないと思っています。
アメリカでは、1620年に英国からの移民が始まってから
現在までの約400年の間の19の世代を類型化した研究があります。
それによると、19の世代は4つの元型に分類することができ、
同じ順番で続いているという研究が発表されている。
よくよく考えてみると、自分達世代(ちなみに86世代です)は、
上の世代から、「物を買わない」と批判されますが、
その上の世代って、青春時代をバブルで過ごされた方で、
多分浪費だ、無駄遣いだの上の世代に批判されたんではないかと。
また「草食男子」と皮肉交じりの言葉がありますが、
草食に見えるが、実は肉食という「ロールキャベツ男子」という言葉も存在し、
そう考えると、案外やっぱり根本的には変わっていなかったりするのではないかと
思います。
以前「ソーシャルメディアの価値がキャズムを超える為に必要な事」という
ブログでも書かせて頂きましたが、
ソーシャルメディアがまだそんなに世間的に認知されていなかった時期は、
次男坊的にというか、のびのび自分達の主張を主張していく事が
世の中における1つの価値だったと思います。
ただいよいよ世間で注目され始め、
世間という枠の中での責任も大きくなってきた事で、
長男的な役割を果たさねばならなくなったきたのが
今なのかなと思っていていて、
『変化』を強調しないというのも大事な要素ではないかなと。
今回のブログを書くにあたり、
バーソンマーステラの熊村さんの「キャズムは越えない、越えられない」は
改めて考えさせられ、かなり影響をうけました。
最後にその中で、印象に残っているフレーズを抜粋させて頂きます。
日本の場合、特に “ソーシャル メディア マーケティング” の、初期の事例の多くが “ソーシャル メディアに対してポジティヴな一人のユーザーの活動” によって “結果的に作られた” モノだったりするわけで。その一人のユーザーが最終的に語り部として “ソーシャル メディア マーケティング” という形で広めていってしまっているから、ソレを咀嚼するにあたって、どうしてもソーシャル メディアに対してポジティブな姿勢であること、というのが前提になってしまうのは否めないし、また、ソレがゆえに、ソーシャル メディアそのものを
ポジティブなモノとして捉えるコトができない、あるいはソーシャル メディアそのものを今一つ理解できない人からしてみると、まったく別世界の出来事のように聞こえてしまうコトにもなりかねないと思うのだ。
追記
この記事を書く事に対して、色々なご意見を頂きましたが、
自己否定が伴わないevangelizeに価値があるとはボクは思いません。
それはevangelizeではなくforceだと思います。
本当に価値を伝えていく為には、
今回の記事の理屈が通っているかどうかという点は疑問が残りますが、
少なくとも自己の立場を否定する機会は必要だと思います。
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